昭和43年5月21日 朝の御理解 (末永信太郎) №43-074
御理解第64節
此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。
此方というのは、教祖様のことですね。此方金光大神のことです。此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、皆さんはおかげ、参って来るということだけでも、おかげを受けておるということ。参ろうと思っても、参られない人があります。はあ、本当にどうかいっちょ、朝の御祈念ぐらいお参りをしたい、お参りをしたいと思っておるけれども、とにかく、お参りが出けない人があります。ね。だから、おかげを受けて参って来ておるということを知らなきゃなりませんね。
おかげを、言うなら許されて参っておるというのでございます。ね。氏子はおかげを受けてです、遠路のところを参って来るが、まあ、遠いところから皆参って来る。信心して、徳を受けて、ね、信心しておかげを受けてちゅうのじゃなくてね、信心して徳を受けるということ。
わざわざ説明をされる訳でもないのだけれども、もう、それだ、と。信心とは、徳を受けることだと、もう、思い込んでのこれは表現だと思うですね、教祖様の。信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ、と。この身しのぎということが、いつにも問題になるんですね。
これは、あの、現在の教団にでも、これは実は、( )そうだろうと、こう合点の行くような説明がしてない、まあ、色々に検討されておる訳です。今日は特に、この身しのぎをするようになれと仰る、身しのぎということ、身しのぎが出けるようになるためには、また、身しのぎということはということを、一つ焦点において、聞いて頂きたいと思うんですね。
皆さん、身しのぎが出けるようなおかげを受けるためには、やはり、徳を受けなきゃいけませんですね。だから、その徳を受けるその過程、と。ね。その道すがらというかね。昨夜、( )でございました。いろいろ、昨日は、もう終始、信心の勉強でしたようです。まあ、御理解の探求とでも申しましょうか。
2~3日前の御理解を頂かれて、して、それを、その銘々に検討しておられました。私はもう、この、もう、11時頃だったでしょうか。ちょっと入ったら、もう、一生懸命、その御理解を聞いて、色々その、検討しておられる。ちょうど御理解をですね、三回繰り返し聞いて頂きましたと言うておるんですね。
私が参りましてその一回でから、途中三回。それを皆、一生懸命その、(今日の前で?)ちょうどあの、学校で勉強(するようにですね、そして全員?)その、深く広く、そして、その頂く度にそれが分かって来ることなんですね。私は本当、あの、それはよく思っておりますけれども、とにかくあの、皆さんがこうやって一生懸命こう筆記をされますね。はあ、ここはと思うところは、みんな書いて行かれる。
また、それもほとんど、ノートしておられる訳ですけれども。そん時にただ、あの、書いておるだけですから、その、深さとか真意なんかに触れてないんです。で、二回目、今度頂くとですね、「ああ、素晴らしいなあ」ということになって来て、その大意が、ここだいたい掴めるようですね。
今日の御理解は、どこどことどこが焦点になっとるかなといったようなですね。して、今度三回目に頂く時には、もう、いよいよ、その御理解の一つの味わいというかね、あの、それに触れられるんですね。私は、昨日そのことを、こう本当に、はあ、なるほど、そんな風にこうして頂かれたら、もう一遍、何とはなしに時間を得てですね、頂き直さなければ本当のことを分からんなあ、惜しいなあ、と私は思いましたんですけどね。本当にあの、この会長の正義さんが見えておりませんでした。
それで、私が昨日は参りましてから、遅かったと聞きましたけれども。どっか旅行しておってから、帰って来たんですね。ほれで私、その、自分でもおかしいぐらいに、その、何かあの人が、会長が出ないということが、何かイライラするんですよね。それを御祈念の時に、その、そのことを、この、どうしてこんな心が穏やかじゃないんだろう、このイライラするということを神様にお願いをさせて頂きましたらね、第一、この自分の信心に充実した信心が出けていないからだと、私が。ね。
これはね、その人その人なりの信心なんですよ。だから、私と同じであるということはないですね。その私としての信心が充実しておる時には、誰がどうであっても、こうであっても、全然問題じゃないほどに、心の中に平生心を頂いておるわけですね。言われてみると、はあ、なるほど、充実してないからだということを感じるんですね。して、どういうところに、その充実をしてないかと言うとですね、頼りすぎるからです。ね。神様だけに頼っとると思ったけれども、やはり会長、久富正義に頼っておると言うよりも、期待しすぎてるんですね。この信者は、この氏子はと、こう、期待してる。
その期待を外されるから、イライラするわけなんです。ね、あれが例えて言うならば、まあ、杉山さんも昨日は遅うからやって来ましたけど、杉山さんが、ならおらんからと言って、杉山さんからと言うてイライラするはずはない。ね。それが、正義さんが来とらんというだけで、その、何かイライラしておるということはです、(お水を?)頂ける期待しすぎてた、私が。だから、期待はしちゃならん。ね。
どうぞおかげを受けてくれよ、という祈りは申さなきゃならんけれども、期待しちゃならん。ね。同時に、自分の信心が充実。それがですね、なら、それが充実しとるでないならです、はあ、ほんにそうだ、と。ね、私が頼っちゃならん、すがっちゃならんと思う。自分の充実してないことの信心をお詫びさせて頂いておる内に、その平生心ちゅうものを取り戻すことが出ける。
ですから、この、不安とか平生心を変えようということは、おかげにならないですね、やはり。まあ、そういうことも、その、信心して徳を受けてという、一つの(むしんが?)来てくるようになるでしょうね。自分で自分の心の、どうにも出来ないものを神様へ向かって、向かったら、すぐにこれが、平生に取り戻さなきゃいかん。誰のお世話にならんでも良いわけですよね、自分でこう。
だから、この身しのぎということは色々に言われて、まあ、言うならば、その、霊徳に触れるとかね、自分で自分のことぐらいはお伺いが出けるようになるといったようなことを、まあ、身しのぎと言う。けれども、現在の教団では、そうは言ってません。そういうことは、もう、ないんだといったような風な言い方の方が強いですからね。ここでは、やはり、そういうようなことを言うても来ましたけど、それだけではない。もっともっと、大事な身しのぎということについての、本当のことじゃない。
そのことを、私はあの、お伺いを今日させて頂きましたらですね、お互いがね、あの、提灯持ちにならなければいけないと仰る。うん。よく申しましょう、あの人は、ね、あの人の提灯持ちだ、と。いかにも提灯持ちちゅうのは、こう、軽視されるような感じですけれどね。信心での、いわゆる、提灯持ちにならにゃいかん。それは、誰の提灯持ちになるかと言うと、此方金光大神のというところですけれども、まあ、金光大神の提灯持ち、みんなが出けることはない、出けない。
そこで、その金光大神の手代わりをしておる、取次を願う先生の提灯持ちになる以外にはない。以外と言うが、それが一番近道だということ。ね。けっきょく、それは、ね、私自身が光を持たない、提灯を持たないなら、皆さんが(持とう?持っとる?)と言うても持てないのだけれど、確かに、私がまあ、敗れ提灯であるかも知れんけれども、私は持ってるわけ。ね。その提灯を皆さんが持って下さるわけなんです。
そすと、自分自身も、どうですか。提灯持っとるからには、足元を不自由しないで済むでしょうが。ね。身しのぎというのはね、どのような場合でも、どのような真っ暗い中にあっても不自由せんで済むようになれということなんです、身しのぎということは。ね。
どのような真っ暗い中にあっても、ね、手探り手探りで行くようなことじゃ身しのぎじゃない。ね。どういう中にあっても、足元を明るうして行けれるようなおかげ。ね。同時に、それよりま一つ、その前に、ついて来なされこの提灯に、決して苦労はさせはせん、という。ね、うたの文句じゃないですけれども、そういう信心。それはどういうことかと言うと、提灯持ちにならずともです、親先生任せになることなんだ。
ね、これが先ず、はじめだ。親先生任せになっておくということは、こんなにも楽なことだということを、先ずして行くところに。ね。そこんところを段々出けるようになったら、親先生、その提灯を私が持たせて頂きましょうと言うて、その提灯を自分が持てれるようになる。いわうる、提灯持ちの御用をさせてもらうということ。昨日、ある方がお参りをして見えた方に対しての御理解にね、合楽では現在、総代が四十名あるというような御理解を頂いた。四十名もそうにはおりませんですよね。
けれども、それはもう、言うならば総代の玉子といったようなものでしょう。また、総代を卒業したというような人たちも含めてのことでしょう。ほれで、私は思うたんですけれども、ははあ、例えば一番はじめのここの総代は、秋永先生やら久富先生たちが、一番はじめの総代でした。
この人たち(いわゆる?)、現在のいわゆる神愛会の人達。次には、現総代の十名。ね。次には、菊栄会の十名。(それはもう?)、それから、次には松栄会の十名。なるほど、どの人を見ても、本当に次の時代のやはり総代である。松栄会なんかは、もう、次の時代の、次の次の時代の総代としての教養というかね、信心の、を、もう、言うなら若いながらも身につけて行きよる。
言うならば、いわば、その先生の手になろう、足になろうと言うのである。いわゆる、提灯持ちになろうと言うのである。ああ、なるほど、そげな合楽なら、四十で(してみると?)四十名ぐらいなこっじゃないなあ、と私は思うんですよ。ね。十三日会の方達だってそうです。ね。美登里会の方達だってそうです。本当に、親先生の手にもなろう、足にもならせて頂けるなら、足にもならせて頂こうという、まあ、人達の集いです。それだけじゃない、まあだある。
ああ、(そういう?)合楽はおかげを受けておるのだ、こう思うんです。ね。そういう、私は、この信心からですね、そういう身しのぎの出ける信心とは、こういうものだということが分かり、身しのぎの信心とは、これだと自分の身にも、そのおかげが受けられる。いわゆる、身に徳を受けてと仰る徳を受けて行くことが出ける。例えて言うならば、ね、大祭のご案内を皆さんが配られましょう。ね。
それを、10件配るよりも20件。これは、神様の思いでもありゃ、先生の思いでもある。どうぞ、一軒でも多くそれを配って回って下さいよ。言うなら、こう、お使いさんのごたるけれどもです、それが、言うならば先生の手にも足にもなってる証拠なんです。ね。
そういう御用をですね、喜んでしかも、ね。喜びを持って(満たする?)というように、その根本、そういう御用が出けるということを、ね、言うなら世話人のひとつもさせて頂けれるということは、有り難いと心得て信心をするということ。ね。
ですから、例えば、ここの朝の御祈念にでも参られる方達の全員が、まあ、皆さん、先生の提灯持ちになれれる、まあ、言うなら、(自分達の?)心をしときゃ、提灯持ちになれれるわけなんです。ね、これだけ毎日、繁々と合楽に通うて見えるのですから。いわゆる、遠路のところをおかげを受けて参って来れておるのであるから。ね。此方金光大神の提灯持ち。此方、言うなら大坪聡一郎の提灯持ちが出来る。ね。
それには、先生の思いが分からせてもろうて、先生のその思い、いわば、痒いところに手が届くようなというような、どこでもいいです。ね。手にでも良い、足にでもええ、ならせてもらえりゃ。ね。私は、今日はこういう風に関してから、ははあ、身しのぎとはこういう事だということを、こう、はっきりとして思う。色々に説かれて来た、色々にまた検討しておるて、ここんとことは。
けれども、今日、私が皆さんに聞いてもらって、これが本当な身しのぎだということを感じるのです。ね。身しのぎとは、ね、けっきょく、どういう真っ暗い中にあっても、不自由せんで済むおかげということなん。ね。身しのぎが出けておりますわけですね。そして、けっきょく、その身しのぎの出けれる信心の内容ということになって参りますとです、ね。私が、例えば、ならここ2~3日、説かせて頂いておる、その御理解を内容とするところのものでなからなければなりません。
いわゆる、信心を一段と大きい信心になれ、と。ね。私一人のための、一家のための願いの信心から、もっと大きな、ね、言うなら、自他共に助かって行けれるおかげを頂かせて頂くための、ね、そういう、例えば願いが、ね、そのまま、金光大神の願いである。それが親先生の願いである。ね、ですから、もうすでに提灯持ちです。そういう信心になろうと精進することが。ね。身しのぎをするようになれと、こう仰る。
その、ですから、これはね、まあ、そうですね。まあ、ここにね、高橋さんがおられますが、高橋さんなんかは、もう、言うなら、もう本気で一生懸命提灯持ちをしておられるわけです。ね。ですから、どんな場合でも、いっちょんその、慌てんで済むですね。どんな場合でも、いわゆる、親先生の提灯を持っとるですから、例えば、不安がちょっとあるようであっても、それはもう、すぐ明るくなれておる。ね。
秋永先生なんかの場合でも同じです。もう、これは、まあ、ある意味での素晴らしい提灯持ちです。親先生が言いたいと思われることを、それこそ代弁して行かれる。しようと思うことをして下さる。ね。そこに、秋永先生の足元がいつも明るいのじゃなかろうかと、私は思うのです。ね。
久富繁雄さんの場合でもそうです。ね。本当にもう、親先生の御用さえさせて頂いたら、もうおかげ頂く、と。ね。この頃の十三日会の時に、繁雄さんの発表はそれだった。信心とはどういうことかち言ったら、親先生の御用をすることだと、こう言う。ね。いわゆる、もう、その、親先生の提灯持ちになることだと、こう言うておる。それでおかげを頂けれる。なるほど、身しのぎが出けるようになる訳であります。ね。
それからと言うて、皆、なら、高橋さんのように、秋永先生のように、繁雄さんのようにという訳には参りませんけれども、それぞれの持ち場立場においてと同時に、ね、いつも私の心の底に願ってるもの。ね、私が言うなら求めておるもの。それに応える信心。ね。言うなら、痒かとこに手が届くような信心。そういう信心することが、すでに、私は提灯持ちの御用を承してもらえる信心。
合楽には、総代が四十名おる。総代の御用というのは、先生の手に足になることだ、と言われております。ね。ですから、その、皆さんがですね、もう、本当に自分が総代にならせて頂いとるような心持ちでですね、手に足にならせて頂く。例えば、ここに新しい信者さんがお参りをして来るなら、その信者さんのですね、相談相手にもなってあげれる、ね、分からんところは教えてもあげれるというように、それが総代の御用。それが、いわば信者の御用だ。まあ、言うなら、すでに提灯持ちになる。
そういう、そういう御用をさせて頂くところから生まれてくる体験。ね。だから、これは、もう体験が(生まれる?)わけなんです。なるほど、繁雄さんじゃないけれども、親先生の御用さえさせて頂いときゃおかげであるから、してみると、親先生の御用をするそのことが、信心だ。
これは改めて、また、ははあ、なるほど深いことだなと、こう思うんです。ね。(親先生の?)御用ていうのは、繁雄さんの上に問題さっしゃるということだけじゃない。ね。先生の手になり足になり、いわゆる、提灯持ちをすることにおいては、非常に( )。ね。そういう、皆さん、おかげを頂けよと、こう金光大神は仰っておられる。遠路のところを参って来るけれども、ね、此方は参ってたずねる所がなかったと、こう仰る。ね。そんなら、それは、まあ言うならば、私も同じことであった。
けれども、段々おかげを頂いて。なら、私がここまでおかげを受けておるということはです、こういう信心させて頂いたら、こういうおかげを受けて来たという、一つの実証をしておるようなもんですから、皆の考えよりも、誰の考えよりも、ここでは私の考えが一番間違いがないです。私が思うておることが、一番間違いのないことなん、皆さんが思うておることよりも。
ですから、私の思いを皆さんがマスターする。ね。私の信心を皆さんのものにする。そして、此方がです、ね、此方がおかげを受けて来ておることをです、ね、こうやって皆さんに聞いて頂く。遠路のところを参って来るけれども、こうやって頂けれるということが、おかげを受けて参って来れるということが、すでにおかげを受けておる。ね。そして、それを自分のものにして、ということは、いよいよ親先生の提灯持ちにならせて頂くという在り方。もう、それがそのままね、金光大神の提灯持ちであり、天地の親神様の提灯持ちである。天地の親神様のお喜び下さる御用をさせて頂くということなんだ。
それには、例えば、私一人とか私一家といったような小さい信心では、どうしても出来ない。ね。本当に一つ、一回り信心を大きゅうさせて頂いて、ね、いよいよ身しのぎの出ける信心を頂きたいと思うです。今日は、その身しのぎということをですね、私はこれはもう、いろいろ見当されて来たけれども、これなら、もう、間違いのない身しのぎです。ね。ですから、皆さんがこのことを、ね、御理解のそこの中にある身しのぎということが、こういうことだ、と。
身しのぎとは、とにかく、どのような場合でも不自由せんで済むということなんです。どんな暗いところにあっても、暗い思いをせんで済むということなんです。ね。そのためには、ならここ、例えば、2~3日の御理解を頂かなければ、暗い思いをしなければならんのであり、不自由な思いをしなければならんのであるということになって来るのですね。どうぞ。